富士山は平安時代から中世にかけて修験道(しゅげんどう)の行者(ぎょうじゃ)たちの道場として繁栄し、戦国末期から江戸初期にかけて長谷川角行(かくぎょう)が、戦国乱世の荒廃した世を救済するため富士山全体を霊場とする富士道を確立しました。その修行の場は2013年、富士山とともに世界文化遺産に登録されました。
江戸中期には江戸の庶民の間で霊峰富士への山岳信仰が大流行し、「江戸は広くて八百八町、江戸は多くて八百八講」「お江戸に旗本八万旗、お江戸に講中(こうじゅう)八万人」といわれるほど多くの富士講(浅間(せんげん)講)が組織されました。
富士講といえば白衣(びゃくい)姿に金剛杖(こんごうづえ)をついて、「六根清浄、御山晴天」(ろっこんしょうじょう、おやまはせいてん)と唱えながらの集団登拝が有名ですが、富士山に登ることのできない女性やお年寄りのために、また身近な信仰対象として、江戸各地の神社の境内に富士山に模した築山(つきやま)が造られました。これを富士塚といいます。東京周辺には「江戸七富士」をはじめ100を超える富士塚が現存しています。
徳洲神社の富士塚は、特別に許可を得て取り寄せた本物の富士山の溶岩を積んだものです。頂上に立ち、小さな赤い鳥居に向かって手を合わせ拝む方向が、富士山が聳える方角となります。